TOP > 研究・交流 TOPICS > 「崇玄観」(2)
実は今、時代をこえたTAOの縁を追跡する旅が長崎で行われています。
長崎歴史博物館研究所前所長の原田博二先生、そして長崎大学名誉教授若木太一先生、長崎総合科学大学大学院教授村田明久教授にご協力いただき、そして江戸時代の、また平安時代のタオイストを追いかける旅は始まったばかりです。
このたび、原田博二先生は崇玄観の場所をこれまでの調査に加えて、『長崎先民傳』に書かれた記述と、長崎の地図をつき合わせて詳しく検証され、川原慶賀の画から、丸尾神社の場所であると特定されました。
この感動の知らせをメールでいただいたのは、2013年の大晦日、まさに12月31日の朝だったのです。
原田先生は、長崎歴史文化博物館研究所 前所長でもあり、川原慶賀の画についても非常に詳しく、川原慶賀の画があるオランダのライデン国立民族学博物館にもたびたび訪れて、調査を重ねられ、今回も川原慶賀の画について崇玄観であろうという建物を、オランダまで出向いて撮影してこられました。
その詳細なデータを見ると、崇玄観と思われる建物は、非常に詳しく丁寧に描かれており、この画とその後の調査によって、崇玄観の実像がますますはっきりと浮かび上がってきています。現在、長崎総合科学大学大学院の村田明久教授にご協力いただき、この崇玄観を目で見られる形に残すために、ミニュチュアの作成を進めており、先生方のご協力の元で、姿が浮かび上がる崇玄観に期待が膨らんでいます。
では、その崇玄観をつくった大江宏隆という人はどんな人だったのだろうか、ということで、これまで『長崎先民傳』に書かれていることしか把握していなかったので、調査をすることになりました。ところが、放送大学名誉客員教授、長崎大学名誉教授の若木太一先生は、大江宏隆について、ずいぶん前にすでに論文も書かれており、何を調べるより、若木先生にお話を伺えたらということで、お忙しい中おいでいただき、その当時の大江宏隆を囲む人々のことも含めて、いろいろと興味深いお話を伺うことが出来ました。
これについては『新長崎市史 第二巻近世編』(部会長原田先生)の大江宏隆の項目、そして大江宏隆に関わる人物について若木先生が書かれた内容が非常にわかりやすいので、下記に紹介します。なお、ページの都合で一部の紹介なので、興味のある方は、ぜひ本を購入されて読まれることをお勧めします。
★大江宏隆
大江宏隆(1669〜1729)は江戸中期の国学者である。(中略)
享保11年に宏隆は田上(長崎市田上町)に真武廟を建てて修練していたが、高但賢が公務で長崎に来ており、廟を見て、評した「崇玄なり」の言葉にちなんで「崇玄観」と名づけ、時の長崎奉行日下部博貞が自ら墨書した額を賜った、というのである。この「崇玄観」の名は唐代の道教の学校「崇玄館」にちなんだ名称である。この年長崎において、日本人が田上に道観を建立したことは銘記しておきたい。
またあわせて、その崇玄観の名前のきっかけとなった高但賢についても、続いて説明されています。
★高但賢
高但賢は高玄岱の次男で、その父高玄岱は、後西上皇に『養生編』一巻を呈上し、また高玄岱、高但賢親子は、新渡の『大清會典』の和解が命じられて、高但賢は長崎に帰って唐通事や唐商らと接触し解読にあたっていた。
また長崎先民伝の編著を企画、執筆した廬草拙は、実は大江宏隆とも高玄岱、高但賢とも親しく交流をしていて、道教も信仰していたというのです。
★廬草拙
廬草拙の父草碩は小野昌碩に医術、本草を学び業としていた。(中略)
陳厳正、大江宏隆、高玄岱らを友とし道教を好んだ。(中略)
享保2年(1717)に奉行に願い出て、長崎村西山郷に妙見社を建て、妙見菩薩を祀り、家には北辰妙見の星像を蔵して尊崇した。
ここから廬草拙も父親が医学、本草に通じていた上、妙見菩薩(鎮宅霊符神)を祀ったとされており、そして実は、この妙見菩薩と鎮宅霊符神という神は中国から来た真武神と同じ神であるといわれています。
渡来系の文人 廬草拙と、日本の文人であり神道家の大江宏隆の交流、そして廬草拙は妙見菩薩(鎮宅霊符神)という日本の神を、西山神社を創建して祀り、大江宏隆は中国の真武神を、真武廟を建てて祀り、崇玄観という道観の名前が付けられた、というところが、非常に興味深いですね。どちらも真武神を祀った神社、廟を作っているのですから。
しかも廬草拙と大江宏隆、そして崇玄観の名前がつくきっかけとなった高但賢の3人は非常に深い交流をしていたということがわかっています。当時の日中の文化交流の深さと、親密さを感じされるエピソードでもあるのです。
大江宏隆の真武廟にはどんな真武が祀られていたのか、非常に興味が湧くところですが、今のところはわかっていません。長崎のタオイズムの歴史はやっと今、紐解かれようとしています。そして調査が進み、TAOの歴史に光が当てられるのは、まだまだこれからなのです。
廬草拙、そして高但賢はどちらも父親が医術を勉強しており、特に、高玄岱は『養生編』の著者であることを思うと、その交流の中で大江宏隆も京都での遊学の間だけでなく、長崎に戻ってからもタオイズムの医術、養生を身近に学ぶこともできたであろうことが想像されます。
また大江家の家系から、平安時代には、古来より朝廷の書籍を管理する仕事をしていたこと、そして平安時代に有名な大江匡房は、養生の大家であったという研究もあり、日本で初めての兵法書である『闘戦経』を書いたともいわれていることなど考えると、同じ大江氏を名乗る大江宏隆が崇玄観で修練していたものは、タオイズムの医学、哲学、武術などであり、当然導引も含まれていたことが想像できて、わくわくしますね。
これらについては、更に深く研究、調査する必要がありますが、日本の歴史にはっきりと記された、大江宏隆の崇玄観という道観での修練の事実は、日本に古来伝わった道教、タオイズムの流れが、江戸時代に花開いた結果に違いないのです。
天來大先生は、日本に伝来した導引の起源として、三体千字文と『論語』十巻、平方学が朝鮮半島経由で王仁によって日本にもたらされた時に伝えられたと書かれています。そして菅原道真が平方学に和註をつけて、清和源氏、村上源氏に伝えたことでタオイズムの導引、武術が伝承され、清和源氏には武術だけが残り、村上源氏は水軍であったために、船の上での生活に必要な健康を保つための導引もあわせて残ったといわれていました。
一月初めに、首都師範大学日本文化センター長、李均洋教授をご案内して、太宰府天満宮を訪れたことで、菅原道真と日本へのタオイズム伝承の深い関係について思い起こしました。
菅原氏と大江氏
そこで菅原氏について調べてみると、実は、菅原氏と今回崇玄観をつくったという大江宏隆の大江氏は、ともに土師(はじ)氏を源流としていることがわかりました。
両氏とも代々歴史、漢文学の専門家として朝廷に仕え、学者として非常に重要な両家なのです。中でも有名な菅氏として菅原道真(845〜903)がいますが、道真は899年右大臣に任ぜられ、その破格な出世を怨まれて、突然太宰府に左遷され、失意のうちに翌々年の2月に亡くなっています。その後、道真の祟りと称する異変が続き、923年にその罪を取り消され、本官に復し、のち993年には正一位太政大臣を贈られました。そして民間では祠を北野に建て、天満神(北野天満宮)として祀ったのです。この祟りの様子を見ても、なにか道教的な雰囲気を感じる出来事ですね。
『本朝文粋』(平安中期の漢詩文集)にも、菅原氏、大江氏、藤原氏など歴代の高名な学者達の文章が並んでいます。
菅原道真と大江匡房
また、平安後期の政治家で日本歴史上傑出した学者の一人といわれる大江匡房の談話を集録した『江談抄』を見ると、菅原道真を尊敬し、特別な関心を寄せていたことがわかります。平方学に和註をつけて源氏につたえた菅原道真と、養生にも兵法学にも秀でていた大江匡房とがはっきりとつながりました。大江氏と菅原氏はともに、学問に秀でた、朝廷が持つ書物に触れることのできる立場にあったのです。
江戸時代の長崎に住んだ大江宏隆のルーツをたどる旅も、また始まったばかりですが、ますます楽しみになります。
そしてもう一つ、京都の清涼寺はその昔、嵯峨天皇の第12皇子の源融がつくった山荘、棲霞観である、ということから、その棲霞観が道観であったのではないか、ということで清凉寺を訪ねました。現在の清凉寺には何も史料がないということでしたが、その後の調査で長崎、平戸の松浦史料博物館に棲霞観の古図があることがわかり、こちらも古図の写真を撮って、調査を進めています。これもぜひお楽しみに〜〜
更新日:2014.2.15