荘子は、スケールがとても大きなお話しが多く、沢山の寓話の中で、無為自然の道TAOの生き方について、語っています。
そして老子と比較して、荘子には生死の問題に言及しているというところが特徴でもあります。
その点で、老子よりも、もっと具体的に人間の生き方、命について、解りやすくつっこんで書かれている書物なのです。
そしてその立場は基本的に万物齋同ですから、生も死も同じであると言い切っています。 どちらがすぐれていてどちらが悪いということもなく、どちらが幸せでどちらが不幸ということもないのです。
私達人間の苦しみの元は生への執着であると考えると、この荘子の哲学が本当にわかったら、生きていることが楽しくなり、そして日常のさまざまな精神的な苦しみから解放されることでしょう。
では、荘子が人の生死について語っている章をいくつかご紹介しましょう。
人間は五体を与えられて、この世で生きることに苦しみ、老いをむかえて安らぎ、死を得て憩いにつく。
これが人間の一生であるのだから、生をよしとして肯定するのと同様に
死もまたよしとして肯定できるはずではないだろうか。
にもかかわらず、我々は、やはり生への執着から 汲々として生を守ろうと努める。私達はただ人間としての姿形を与えられただけで、それを喜び大切にする。
だが、この人間の姿形を与えられたということも、天地万物の止まることない変化の一つで極まることはない楽しみに比べたら、比較にならないほどささいなことだ。だから聖人は、天地自然にまかせて何物も失うことのない世界に遊んでいる。
早死にも善しとし、長寿も善しとし、始めを善しとし、終わりを善しとするので、人はこれを人生のならいとするのです。
そして、すべて万物の変化の原則であり、すべての変化の原理である「道」こそ最も尊いものだ。
つまり私達人間はこうして五体を天に与えられて、この世で生きていますが、それはけっこう大変で苦しみも多いのです。
そして年を取ることをいやがりますが、老年になることで安らぎを得ることが出来、死ぬことによって実はとてもすてきな憩いの世界に入るのだと言っているのです。
だって年をとったら走れなくなる、これは走らなくていいという天からのプレゼントだと思えばよいのです。
走って必死に働くのは若い人の、仕事なのです。
ですから年を取ることは悪いことじゃない。 楽になることだと言うのです。
そして人はいずれ死ぬが、それもこの世の煩わしさから逃れて、憩いの世界に入るのだ、と考える。
そして、これが人間の一生なのだから、生まれることを良いことだと言って喜ぶのだったら、死ぬこともおなじようによいことだと喜べるはずじゃないかと説いています。
たしかに荘子の言う通りですね。
生まれたら死ぬ、どんな人間も平等に生まれて来たらいつかは死ぬのです。
それが自然なのですが、なかなかそう簡単に受け入れられない。
そして死に対する嫌悪感、恐怖は、人間の人生に大きな苦痛をもたらしているのです。
死への恐怖からの解放!
さあ、もう少し荘子を学んで、この死は憩いの世界という境地に進んでみましょう。
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更新日 2013年08月01日